…声が聞こえる。
…たくさんの声が聞こえる。
…これは呪文、呪いの言葉だ。
どこだか分からない真っ暗い空間に、ぼくはひとりで立っていた。
ドス黒い悪意に満ちた声に両手で耳をふさいでも
鳴り止まない声は頭の中に直接響く。
しゃがみこんで、ぎゅっと目を閉じて、歯を食いしばる。
耳を押さえる手に力が入る。
呪いの言葉の合唱は、今や大音響となってぼくの周りの空気を揺らす。
頭の中でも、耳の中でも、鳴り響く呪い。
「いやだ…こんなの、聞きたくないよ…」
世界は、こんなにも憎しみに満ちている。
誰かが誰かを憎む感情の渦に、胸がむかむかする。
「どうしてさからうの?」
誰かの声が聞こえた気がして目を開けた。
でも、誰もいない。
「ねえ、きらいなんでしょ?」
ぼくの後ろから声がした。
振り返るとそこには、…ぼくがいた。
旅に出ていた頃の格好をしている。
見覚えのあるゴーグル、見覚えのある服、見覚えのある盾。
ぼくは、今まで耳に当てていた手を離し
自分のパジャマの袖口を見て、もう一度目の前にいるぼくを見た。
「みとめちゃえば?いやなんでしょ?
どうしてぼくだけこんな思いするんだよって、ずっと思ってるよね?」
ころころと笑いながら、でも、胸に刺さる言葉を繰り返す。
「…違う…」
「ちがわないよ。ぼくには分かるんだ。
ユキのこと連れてっちゃったカイも、ぼくのこと忘れちゃったユキも
きらいでしょ?」
「…そんなこと、…ない…」
どうして、そんなこと言うんだよ。
そんなこと、聞きたくないのに。
「一緒に唱えればいいよ。聞こえるでしょ?
みんなといっしょに、この呪文を唱えるだけで楽になれるよ?」
「…いやだ…」
そんなことしたくない。
ぼくは…ぼくは…。
「ばかみたい。何いい子ぶってるの?そのうち死んじゃうのに」
「…!」
目の前のぼくがくすっと笑った。
「分かってるでしょ?カイもユキも、もう戻ってこないよ。
ぼくがそれを望んだからだよ」
「…やめろ…」
「ほら、唱えてみなよ、この呪文。
楽になれるよ。あっという間だよ?」
くすくす笑う声が耳にこびりつく。
いやだ、もう聞きたくない、もう見たくない。
呪文の洪水がぼくの耳に襲い掛かる。
「ほら、早く」
「…やめろ…!」
そしてぼくは。
目の前のぼくに対して、呪いの言葉を唱えた。
「***!」
ぎゅっと閉じた目を開けるとそこはベッドの上だった。
「…夢、か」
手には汗をかいている。
パジャマもじっとりとした汗で気持ち悪く湿っていた。
「…気持ち悪い…」
口の中も、泥水でうがいをしたように苦くなっていた。
「夢でよかった…」
今もまだ耳にこだまする、気持ち悪い呪いの声。
今は何時頃だろう。
お昼かな、夜かな、そんなことを思ってふと窓の向こうを見ると
薄い月明かりが部屋の隅の水槽に差し込んでいた。
金魚が全部浮かんでいた。
「…!何で…?今朝まで元気だったのに…」
「ぼくがやったんだよ」
声が聞こえた。
あのときの…もうひとりのぼくの声だ。
「おぼえてるよね?
いなくなれって思ったもんね?
見てみなよ、ぼくがやったんだよ」
…夢じゃ…なかったんだ…。
ぼくが…ぼくが…金魚を…殺した…?
もう一度水槽を見た。
嘘じゃない。
呪文を使えない今のぼくがやったわけはない。
そう思っても、それを信じることができない。
目の前がじわっと滲んだ。
「ごめん…ごめん…っ…」
まだ生きていられるはずだったのに。
ぼくが。ぼくのせいで。
「もうやだよ…こんなのやだよ…」
いつまでぼくは生きているのだろう。
こんな体で、もう、何もできないのに。
罪もない生き物を殺してまで。
まわりの全てを憎みながら。
いつまでぼくは生きているのだろう。
もう、消えてしまいたい。
そう、強く願って目を閉じると、浮かんだのはユキの顔。
今頃どうしているだろう。
「ユキ…」
もう会えない、そう思うと、胸がずきんと痛い。
「ごめん…もういっかいだけ…最後に…会いたかった…」
そのままぼくの意識は真っ黒な闇へと落ちていった。